とある女の話

 さて、平成30年。西暦2018年。皇紀2678年。

 年明け一発目の更新なのだが、しかし今回書こうと思った一件をどう書いたものか、私は今少し悩んでいる。直裁に書くべきか、あるいは迂遠に経緯からちまちまと書いていくか。性分に合っているのは前者なのだが、しかし今回は、恥さらしというか不幸自慢のような意味合いの強い一件なので、そのような自分本位のやり方はいささか配慮が足りないように、思われてしまう。

 しかし考えてみれば、どのみち書くのだ。

 ならば書く。

 

 その出来事が突如私に起こったのは、今日の昼前。私が洗濯物を取りに行こうとした直前だった。その瞬間まで、その朝はなんてことない、いつもの朝だったのだ。

 

 電話がかかってきた。

 気づいた以上、当然、私はその電話に出る。

 電話の主は、私もよく知るとある女性。

 

 ええい、さっきあんなこと書いたばかりだというのに結局経緯を書いてしまっている。自分で見ていて嫌になってきた。なんてまどろっこしいんだ、自分。

 

 つまり、こういうことだ。

 二日前告白された女に今朝フラれた。

 そう、電話の用件はそういうことである。

 

 ・・・・・・・・・・・・いやはや、笑える話だ。

 何が笑えるといって、私が今回何もしていない、と言うことだ。告白していない、手も繋いでない、そこから先なんて論外だし、挙げ句の果てには別れを告げるのも私ではなかった。向こうが勝手に始めて、勝手に終わらせた。なんというか、他人がやっているテレビゲームを横から眺めていたような、その程度の感覚しか残っていない。淡いという感覚すら、なんだか違う、どう片付けていいのかいまいち分からない、そんな体験だった。

 

 それから一日過ごして、これを書いているうちに日付を超えたのでもう昨日のことになったが、ようやっと少し、怒りのようなものが芽生え始めた。

 まったく、とんだ自己中である。他人を振り回して屁とも思わないとは恐るべき女だ。

 思い返してみれば、告白の際の言葉が「君とだったら付き合ってもいいかなと思って」などという台詞だった時点で、私は警戒するべきだったのだろう。もはや終わったことだと忘れるのは簡単だが、しかしあっさり忘れるにはこの体験はいささか重すぎるし、馬鹿馬鹿しすぎるし、そしてやや苦い。この一件のあと吸った煙草は、珍しくそんなに苦く感じなかったのだが、それは恐らくこのせいだろう。

 今にして思えば、私はあの女から、「振り回したって問題ない人間」と思われていたということだろう。それだけの強度があると思われていたのか、それともそれが大丈夫なだけのお人好しだと思われていたのか。恐らく後者だ。しかしどっちにせよ、確かなのは舐められていたということである。そしてその思惑通り、私は一人の女の気まぐれに二日間付き合わされ、哀れあっさりと元の独り者へ戻された。お笑いぐさもここに極まれりだ。

 私はこれまで異性の相手がいたことが一度もないのだが、しかし今回の一件をカウントすることは止めておきたいと思う。私個人の安っぽいプライドのためと、あの女へのせめてもの突っ張りを兼ねて。

 

 人間の中でも、思春期のうちに誰かを好きになったことのある人間は、それだけでもう少し幸せだと、私は考えている。それは、自分の中に他人を好きになれる心があると気づくことになるからだ。

 持論だが、成長途上のうちに誰かを好いたことがない人間は、恋に鈍くなる。他人からの好意にも、自分の中にある誰かへの好意にも、気づきづらくなる、ように思える。好意的な友人、ぐらいの感覚はあっても、それが友人としてなのか、恋愛感情なのか、判別しにくくなり、やがて忘れてしまう。今の時代には一人きりの人間が随分多いらしいが、その原因は案外、こういう経験不足から来るものだと私は思う。

 もっとも、好きとはなにか? なんて問いをこんな場所で問うつもりは一切ない。それは心理学者にでも任せておけばいい問題だ。百年かそこら経てば分かるだろう。肝心なのは、それを経験したことがあるのか、ということだろう。その、言葉にできない感覚を体で、心で覚えること。育ってからじゃあ、その微妙な感覚はどうにも掴みづらい。だから大人は、それを実感で感じないと落ち着かないし、やがてはその感覚を忘れても平気になる。

 そういう大人を見るのは、なんというか、結構残念な気分にさせられることだ。このことに限らず、大人は常に若者に現実を突きつけるものだが、私たちはそのたびにその現実にがっかりさせられてしまう。幼子は、自分の親が自分と同じただの人間だと知る。少年は、正義のヒーローが自分を助けに現れてくれないことを学ぶ。小学校へ進んだ子どもは、先生が自分の抱く疑問に答えられないことがあると気づく。彼らはやがて、力のあるなしがはじめからある程度決定されていることを思い知らされる。この世にはウルトラマンはいない。自分にはチャクラが流れているわけではないし、スタンド能力が眠っているわけでもない。鍛えるのにも限界があるし、持って生まれた才能は覆せない。

 この世の中の大半は、そんな非情な現実で覆われている。その中で、前を向いて歩いていくというのは、とても難しい。時たま、世にごまんとあるポップソングの明るい歌詞に、憤ってしまうことがある。それが、ずっと生きてきた末に歌うことなのか、と。

 

 しかし、世の中には美しい現実も、ある。それは決して無くならないし、疑う余地のないものだ。私たちが非情さに絶望しかかったとき、それはふいに目に触れる。それも特別なものじゃなく、ごく近くのもの。

 妙なもので、平素気にも留めない、いっそ非現実的と言ってもいいそんな現実が、時に驚くほど鮮明に、そして綺麗に見える。慰めが、そういう形で現れるようになっているのは、なぜだろう。

 

 生きることは、ひどく難儀で、果てしない。

 自分が幸せになる未来。人間、それを想起するのが、一番難しいのかもしれない。

 

 さしあたり思うこと。

 今年引いたおみくじが中吉だったのだが、ありゃどうも間違いだったらしい。

 せいぜい、末吉ってとこだろう。