ある女との決着。

 我と我が身に突如襲いかかったあの厄災より早二週間以上。ようやっと少し、心の傷も癒えてきた。

 なんてことは未だない。あるわけがない。あってたまるか、そう易々と。

 

 実はあの後、どうにも色々問題が残っていて気持ち悪いままだったので、あの女に電話をかけて当時の状況を詳しく問いただしてみた。その結果、実際の事態は私の予想を遙か上回っていることが判明した。まあ要するに、単なる自己中の女だというならまだしも少しマシだったということである。つくづく私の今年は厄年だった。ここで厄が落ちきったと信じたい。そうでなけりゃあんまりにも救いがなさ過ぎる。

 さて、あの女の実態を三つ、ここに列挙しよう。私が彼女にした質問をほぼそのまま書く。

 

問1 何故告白に至ったのか。

答  自分のコンプレックスと酒の勢い。

 

問2 なぜ私だったのか。

答  本人の周りに極端に異性が少なく、私はその中の数少ない選択肢の一つだった。あとは天秤にかけた。

 

問3 なぜ別れようと思ったのか(2日で)。

答  付き合うという、自分にとってこれまでまったく他人事の世界だった事象が突然身近のこととなり、あまりのことにパニックになった。そして世の中には1時間で別れるカップルもいると知り、だったら私もそういうことをしたって大丈夫だと思った。

 

 以上。世の紳士淑女、礼節と自尊心をわきまえたるすべての人々よ、とく御覧あれ。これぞ私史上屈指の自己中女の脳内である。笑いたまえ、こんな女の実態に気づかずなけなしの純情をどぶへ捨てた哀れなる私を。

 とくに意味が分からないのは3つめである。なにがどうなっているのだ、こいつの脳味噌は。なぜ極論で自身の行為を正当化しようなどとしているのだ。なぜこちらに相談の一つもしなかったのだ。なんのための彼氏か。これではラブドール相手に愛を囁く童貞男子といかほどの差異もない。いやさ、相手をまるで考慮していないという点では、ラブドール相手以下だ。これまでの人生、たった一人きりで生きてきたのかあいつは。ああ愚痴が止まらない。いくらだって書けそうだ。

 まったく、なんてこった。

 振り回されたのがたった二日間で本当によかった。心からそう思う。振り回されたのが年単位だったら、このショックで引きこもるところだった。

 

 話を変えよう。心のやさぐれが止まらなくなる前に。

 ライトノベル作家として、またその執筆速度の速さで一部(特にオタク界隈)によく知られている作家、西尾維新氏の著作「悲惨伝」にこのような一節がある。

 

 どんな悲劇に見舞われようと君の人生は続く。

 残念なことに。

 

 人間、死ぬまでが本当に長い。たとえ今日、自分の身にいかなることが起ころうと、どれだけ取り返しのつかない事態が降りかかろうと、それでも私たちが死なない限り、まるで何事もなかったかのように、腹立たしいほどあっさりと夜が明けて、朝が私たちの前に悲劇を突きつける。そうやって、目前の悲劇に時には立ち向かい、多くは見て見ぬふりで誤魔化し、逃げ出すときもあり、躱せるときは躱し、やり過ごす。それを繰り返しているうちに、気がつくと寿命だけが必然としてそこに立ち現れる。そして初めてそこで、いろんな事を後悔する。なんとまあ、絶望ばかり深まる話か。本当に、残念なことだ。

 私にとってもそうだ。今回のようなことがあったところで、私を取り囲む環境のすべては、何一つ変わることはなかった。ただ私だけが、今までより少し重たい絶望を背負っただけだった。胸のまん中に冷たい穴が空いた感じがする。すかすかする。

 

 だが今、私は一つ考えている。なぜ、私は死のうとしないのか。

 自殺する。それだけで、生きていく限り降りかかる絶望も、偶然の厄災も、すべて無くなる。何より死んでしまうのだから、誰がそれを罪と咎めようと、私には何一つ届かない。非常に楽だ。それが分かっていながらなぜ、私はこれまで死のうと試みなかったのか。生き、続けたのか。

 きっと、死ぬことは一瞬だからだ。

 誰かが言うまでも無く、死んだら終わりだ。希望も絶望も何もかも。抱えた荷物を投げ出して、路傍に寝転がるようなものだ。その瞬間、積み重ねたものをすべて捨てて、我々は真の自由を得る。

 だがそれを、我々は何一つ感じ取れない。死んでいるのだから当然だ。そんな、分かれないものを得ようとすることに意味があるとは、今の私にはどうしても思えない。意味があるとすれば、死ぬことそのものにある。それがギリギリだろう。

 人間が、その僅かながらに有する選択の権利を行使できる最後の最後が、自分の死に方じゃないだろうか。どう生きるかまではともかく、どう死ぬかぐらいは、人間なんとか決められるんじゃないのか。確かに残念だと思うことだってあるけれど、私が未だに手首にカッターナイフを当てない理由は、恐らくそこにあるように思われる。

 悲劇がやってくる。災害が襲う。つまらなさがくっつく。偶然が笑う。情けなくて嫌になる。惨めったらしくすがりつく。そしてまた、障害が邪魔をする。何度も何度も絶望させられる人生、せめて最後の最後くらい、自分が少しでも満足できる形にしたい。そのやり方として、今自殺することはあまりにも早計に過ぎる。そんな思いが、私をとどめているような気がする。今ここで死んで、何が面白い、と。

 死に方が好きに選べる。それはとても素晴らしい、生きがいにも近いものに思える。時代が違えばけっしてできなかったことが、今はある程度できる。寿命まで生きることもできる。明日死ぬこともできる。何かをやってから死んだっていい。どんな方法で死んだっていい。誰が何を言おうが、死人に目も耳もありはしないのだ、関係ない。

 だから、人生が続くことは残念じゃない。まだ生きているから、好きに死ねる。

 

 ・・・・・・少しどころじゃなく、暴走した考え方だ。

 だが、今はそういう気分なのだ。許してほしい。

 思った以上に今回の一件は、私自身のメンタルを傷つけていたらしい。電話したあと、やっとそのことに気づきだした。今回のことを笑い話にできるまでに、まだ少しかかるかもしれない。そう思うと、こんなとち狂った考えも浮かんでくる。そしてこんな考え方だって、言ってみれば少し面白がれる。馬鹿なこと言ってやがる、そんな風に思える。

 

 今日、外は風が強い。雲が、凄いスピードで流されていった。

 阿呆らしいくらいふざければ、少しは暗雲も飛んでいくだろう。その後の少しだけ荒れた場所で、また私は、ほんの少しだけ好きに、生きていけばいい。

 月明かりがそそぐ真夜中の道を帰りながら、そんなことを考えていた。