疼き

 以前、病院についての話を書いたが、その派生として。古傷、についての話。

 

 私の左手の人差し指には、小さな古傷がある。昔、小刀でざっくり切りつけて、整形外科で縫ってもらった傷だ。今ではもう、皺と同化して分かりづらくなっている。

 今日、ふとした拍子にその傷が痛んだ。チクチクというよりはもっとはっきりした、ズキズキという痛みだった。傷の部分を自分でさすっているうちに痛みは消えてしまったが、血も出ていない、随分昔の傷がなぜ今頃になって痛むのか、少し気になった。

 私の傷はほんの数センチという小さなものだが、例えばこれが10センチ以上もある大きな傷だったりしたらどうなるだろう。その痛みというのは、もっと凄いものになるのだろうか。それとも、古傷にも痛むものと痛まないものがあるのだろうか。例えば、イエス・キリストの聖痕は一番有名な古傷だろうし、全身五ヶ所にある上にとても大きい。しかもことあるごとに痛むどころか出血するようだ。幸いにして、私の体にはそこまで多くの傷も大きな傷もない。しかしだからこそ、そういった感覚を知りたいと考えることがある。雨の日に古傷が疼く、ということがあるらしいが、それは実際のところどのようなものなのだろう。一度味わえばもう十分という類のものであろうことは容易に想像できるが、しかし興味がある。手術痕も、そういったものの一環として興味がある。これは、以前の病院に対するあこがれと似たようなものだろう。

 

 重要なのは、自分のものであるということだ。決して、他人の傷を見たりするのではいけない。プライバシー云々以前に、それでは何も分からないからだ。この手のことは、自分の体と神経を使って初めて分かることだと、私は考えている。太陽の写真を見ても、その眩しさが理解できるわけではないのと同じことだ。

 しょせん私とて人間だから、何でもかんでもやれるわけではない。傷の感覚に興味があるからといって、自分でそんな傷をつけたりはしない。あくまでも気になるだけのことだ。しかし、知りたいと思っている。

 

 窓の外を見てみた。町が、薄もやに包まれてぼんやりとしている。そういえば今朝、町がすっぽりと霧に包まれていた。傷が痛んだのは、ひょっとするとそのせいかもしれない。沈んでいく西日が、目に眩しい。本格的な冬になって、随分と日が沈むのが早くなってしまった。夕焼けを見ていると、どうしても今日という日を振り返らずにはいられない。そして、できたはずのことばかりが思い出されてしまう。そういった後悔が、日々積み重なり続け、そしていつの間にか忘れ、死ぬ間際になってふいに思い出されて、悔いとなっていつまでも残る。

 体の傷はまだいい。それが痛むのは、生きているという証拠だからだ。

 心の傷は厄介だ。いつどこでだろうと痛み出すし、しかもつける薬がない。