「ニンゲン」と書いて「面倒なヤツ」と読む。

 とかく、自分自身とは難儀な存在である。

 油断するとすぐ、ろくでもないことばかり考えているからだ。

 

 一人でいる時間が昔より長いせいだろう。近ごろ、頻繁に考え事をするようになってきた。それも大概の場合、あまり前向きとは言い難いことだ。

 考え事の入り口は、大体自分の将来についてである。現在の自分と社会を鑑みたとき、はたしてこの先やっていけるんだろうか、という考えがまず真っ先に思いつく。自虐でも卑下でもなく、私はこの先の社会で天寿を全うするまで生きていける自身がない。否、この場合、「背筋を伸ばして」生きていく自身がないというべきか。何らかの目的意識に満ちあふれ、前をのみ目指して愚直に己が人生を生きていく、ということが、今の私には夢物語としか思えないのである。だってそうだろう、誰だ、その純粋極まりない人間は。少なくとも私ではあるまい。それだけは確信できる。

 そしてそこからだんだんと、自分の生きている意味だとか、死やら未来やら心やら、考え抜いたところでしょうがないことばかり考え、思考が泥沼へはまり込んでいく。そういう時は別のことをやったりしていることも多いが、ほとんどの場合何の意味も無いことだけをぼうっとやっている。そしてふと気づいたときには、時計の長針と短針が重なっていたりして、欠伸ばかり出るようになっている。やれやれだぜ、と言ってもきまらない。

 

 今の時代、よく「進む」というワードが聞こえてくる。大体の場合、前向きな文脈で。

 しかし、なんだか疲れる響きの言葉だ、と最近思い出した。なぜなら、私たちが進んでいく方向はたった一つ、自分の死だからだ。それは偉業をなした天才だろうと、道ばたで死にかけている乞食だろうと変わらない。数多蠢く人類に等しく待ち構えているたった一つの簡潔な結末。そこへ向かって進んでいくことを、前向きに捉えたところで面倒なだけじゃあるまいか。そう思ってしまう。

 実際問題、進むだけならみんな、早いか遅いかの差異はあれどやっている。問題なのは進むことじゃなく、進んできたことであろう。今まで進んできたのがどういう道で、どういった進み方をしてきたのか、その結果何が残ったのか。重要なのはこれらの点であって、進んでいくことじゃない。しかし、生き続けているとみんな、進んでいないと思う。自分がどこにも向かっていっていない。ただそこに留まり続けているだけ、あるいは漫然と歩いているだけ。だから他人に、あるいは歌に進めと諭されるたびに、自分なりの前を睨んで強引に足を振り上げる。だがだからといって、進む道が何か変わるわけでもない。その一連の流れは、ある種滑稽でさえあるように思われる。

 そして困ったことに、こう書いている私自身も、周りの全員と同じく、そこへ向けて進んでいる。私が今こうしてパソコンのキーボードを叩いている一分一秒はすべて、二度と戻らないらしい。一切実感の湧かない事実だが、それは真実だ。その現実が、恨めしく、もどかしく、やるせない。

 やってられるか。

 

 人間という生物に生まれたことは、本当に面倒なことだ。人間ほど無駄に長く生き、無駄に考え、自業自得に陥る生き物は地球上にいるまい。遙か昔の先祖がむやみやたらと二足歩行なんぞに挑戦した結果、頭でっかちな我々の脳味噌は余計なことを延々と考えるようになってしまい、ついには心の病なんぞというろくでもないものをかかえだす始末である。ホモサピエンスは、進化を間違ったのだろう。明らかに、いらないものが多すぎる。そのいらないもののために、我々は幾度傷つけられてきたことか。裏切り、病、不運、嘘、失恋、絶望、離別、苦悩。いくつある?

 だが我々がこのくそったれなまでに長い人生を生きていくために必要な糧は、そのいらないものの中から生まれ出でる。それが友情であり、愛であり、信頼であり、幸福だ。なんとまあ、難儀な話か。さして数も出てこないのに、その温かみは傷の冷たさを遙かに上回る。他人のそれを傍から見ていてさえ、そうだ。だから自分もそれを得ようと思い、それが私たちを死なせない。

 心。

 本当に、ほんとうに、厄介だ。

 

 先頃、ちょっと自分にうんざりした。

 そのころ思考がぐずぐずに腐って、いつもネガティブ極まることばかり考えていた。ネガティブワードでGoogle検索をかけたと言えば伝わるだろうか。私はソーシャル・ネットワーキング・サービスはほとんどやらないので、そういった場で打ち明けるといったこともしなかった。

 だから友人に電話して、一方的に喋り倒した。ずっと、自分の薄暗い心境ばかり喋っていた。ずっと聞いてくれた友人には、この場でお礼を言いたい。ありがとう。

 私は実に単純だ。たとえずたぼろに傷ついても、酷く落ち込んでも、誰かと長話するだけで、わりと回復できる。自分の単純さに感謝すべきか呆れるべきか。ともあれ、友人に話したおかげで今の私は少しはマシになった。進もう、とは思えるようになった。

 

 いくら自分の内側を掘り返しても、そこには暗い過去が埋まっているだけだ。

 だから、空へ飛ぶ。

 海の向こうの景色を見に行く。

 そこに広がる景色を見れば、そしてその話を誰かにすれば、きっとまた私は馬鹿みたいにあっさりニュートラルに戻ってしまうだろう。

 不毛の大地を、出来損なった自分を抱えて、あてどもなく進む。

 そんな現実をいつも「まあどうにかなるだろう」と嘯いている、ただの阿呆に。

 

 そんなわけで今日から、アメリカに行ってきます。