昔の世界

  昨晩、今アメリカにいる友人から電話がかかってきた。その時は夜中の一時だったので私は既に寝ていたのだが、友人のいるボストンと日本では約14時間の時差があるため、あちらではまだ前日の昼11時なのだと後で気がついた。その後電話している最中も、時差によるお互いの感覚ズレみたいな話が話題になった。今や海外も随分近くなったから、このような不思議な感覚も味わえる。こういうときは、地球の大きさみたいなものを実感させられて妙な気分だ。

 

 この夏自転車旅行をしたとき、道のあまりの長さに随分と自分の中での感覚が変わったものだが、しかしそんな感覚でなお計り知れないほど世界は広い。この国だけでも人間の一生に有り余るほど広いのに、広大な海を隔てたそこには、自分の国よりも遙かに広大な別の国が広がっている。どれほどの金と時間と健康があれば、そのすべてを感じることができるのか。しかも、人間が歩ける場所よりも、その陸を隔てる海は倍以上の広さと、比べものにならない深さを持っている。更に空を仰げば、地平線まで延々と空が広がっているし、その青いゾーンを突破すれば、月や星の散らばった無限の宇宙がある。なんというか、あんまりでかすぎてロマンを抱く余裕さえない。なんて凝った作りの世界だろうか。

 昔図鑑で、大昔の人間が描いた世界の想像図というのを見たことがある。その中で、インド人の書いた想像図に思わず爆笑した。

 彼らによれば、我々の世界は巨大なゾウの背中に乗っており、そのゾウはもっと巨大なカメの背中に乗っており、そのカメは更にもっと巨大なヘビの上に乗っかっているのだという。ギリシア人やらの想像図とはあまりにもかけ離れたその図に「なんだこりゃあ!?」と素直に思った。しかし思えば、なんて想像力と遊び心に満ちた絵だっただろうか。理論の入る余地がない。恐らくかつてのインド人は、真剣にあの図のとおりの世界が存在していると考えていたのだろう。今の、地球が丸いことを知っている我々とのズレはどうだ。時差のズレなんて目じゃない、地球と月ぐらいかけ離れている。だがそれ故に、そこには尊敬すべき何かがある、ような気がする。きっと、あれぐらいぶっ飛んだものを思いつけるだけの面白さを持った人々だったんじゃないだろうか、昔のインド人という人々は。ちょうど、日本の古事記における天岩戸前での馬鹿げたお祭り騒ぎを思いついた人のように。

 是非話をしてみたい。私はインドの土着語など勿論分からないが、しかしタイムスリップができるようになっている時代ならきっと翻訳コンニャクぐらいあるに違いにない。その時を、もしも来るなら楽しみにしていよう。

 

 私たちは全員、地球という惑星の上にいる。

 それを知っていることは、意外とつまらないことかもしれない。