My Christmas Eve is Dead.

 物欲と色恋の祭典、クリスマスイブが過ぎて早いもので3日経った。みなさん、いかがお過ごしだっただろうか。

 私は、一日バイトしていた。悲しいことに、その日私以外に職場へ来ていた仲間二人は、二人とも学生だった。イブの夜、老齢の経営陣と学生三人だけでやるバイト。なんとまあ、充実からほど遠い文章だろう。今更泣きたくなってきた。

 嗚呼、イブは(彼女との)予定が入っているのでバイト行けません、とか言いたい。

 結局今年も、そんな充実感に充ち満ちた台詞は言えなかった。

 

 古来、類は友を呼ぶというが、今現在私の周りにいる人間は年上も年下も異性のパートナーがいない人間が多い。いないわけではないのだが、世の中に例外はつきものだからその一例に過ぎない。まあむしろこの場合、朱に交われば赤くなる、のほうが近いのだろうか。パートナーのいない人間すべてがモテないわけでもないのだし。たまに見かける。イケメンで人当たりもよくモテるわりに、自分の時間がほしいなどと言って特定の相手を持たない人間。昔なら一目見ただけで唾を吐きかけたくなっただろう。そもそもかつての私は、基本的に彼氏彼女持ちの人間を羨んでいたし、妬んでいた。まあ要するに、その辺によくいるモテない類いの人間だったわけだ。

 しかし、不思議と今はあまり、そう思わなくなった。今では少し古くなった、リア充爆発しろ、も最近はほとんど言わない。むしろ今ではそういった幸せそうな人間を見ると、頑張れ、と思う。負けるな、とも。世間には存外、躓きやすい小石が満ちている。そのことを知ったせいだろうか。

 今幸せな人間には、この先も幸せでいてほしい。そんなことを、割と自然に思うようになった。

 

 世間は、冷水しか出ないシャワーに似ている。いつまでたっても、暖かくなってくれない。そのうち自分の体まで冷えて、痛くなってくる。でもそのシャワーは出続けるだけで、止めるための栓も、温めるための給湯器も、逃げ出すためのドアもない。やがて、肌の感覚がなくなる。あとは、水をかけられていることも忘れる。

 だから、お湯で温まれている人間が、ずるいと思えてくる。

 けれどそいつには何の罪もない。だからますます泥沼にはまるような気になる。

 

 昨今の若者は、大体二種類に分けられると私は思っている。つまり、大体いつもパートナーがいる人間か、一度もパートナーがいたことがない人間か、だ。持っているやつはいつまでも持っているし、持ってないやつはずっと手に入れられない。年齢を理由に威張る人間がいっこうに減らない世の中だが、こんなところばかり実力主義である。

 けれどたまに、例えばスーパーで、行き交う人々や親子連れを見ていると、この人々の数だけ家族があるのだと思い、とても不思議な気分になる。夜、町に光る明かりの数だけ、命がそこにあるのだ。それはとても、信じられないことに思える。

 

 クリスマスの少し前、そこそこ年上の友人と酒を飲む機会があった。

 その時、その友人が、ふと寂しくさせられる話をしてくれた。その友人の元に、昔の同級生から結婚したことを知らせる葉書が来たのだという。だから、もし誰かと付き合うなら結婚が前提になるだろうな。私見を挟み曖昧な記憶を頼りにかいつまめば、そんな話だった。

 友人にとっては、結婚という言葉はいまや身近な言葉になりつつある。しかし、私にとっては、結婚とは未だ遙か遠くに霞んで見える言葉だった。その時、私は勝手に、その友人との間に隔たりを感じてしまった。年の差というものを、今更思い出させられた。悲しいが、人は生きている限り歳を重ねるし、その差は決して埋められないのだ。

 

 三日前、きっと多くのカップルが生まれたことだろう。あるいは夫婦、ということもあるかもしれない。

 できれば、みんなそのまま、幸せになってほしい。たとえそこが人生の墓場と言われる場所でも、恐らくやりよう次第でどうとでもなるはずだ(私は何も知らないから、とりあえずそう信じている)。

 そしてその幸せを、ほんのちょっと、私にも分けてほしい。

 さすがにそろそろ、寂しさに負けそうだ。