今は仮面を被っていても

 昨日、関東から近畿までが一気に梅雨入りしたそうだ。またしばらく、洗濯物が干しづらくなる季節になる。それが過ぎれば、虫が湧き汗の噴き出す暑い夏。思い描いただけで、冷房にかかる電気代が気にかかる。昔はもう少し、心躍った季節だったが。大人になっていってるなぁ、なんて。

 

 

 突然だが、貴方は、笑顔を作ることは得意だろうか?

 私は、そんなに得意ではない。

 かつて一時期演劇をやっていたことがあるのだが、その時ちょくちょく言われたことの一つに「笑顔がぎこちない」というのがあった。またバイト先で「笑顔ができてない」と言われたことがある。あるいは昔撮った写真なんかを見ると、どうも私の笑顔が歪んでいる。唇の左端だけがつり上がった、仮面みたいな奇っ怪な笑顔が移っていることがままある。おまけにひどいときは、目が笑っていない。そういう時は、まんま仮面のようだ。江戸川乱歩の有名な少年探偵団シリーズの一作に「仮面の恐怖王」という作品があり、その表紙に、唇の両端がつり上がってキューッとなっているえげつない仮面を身につけた恐怖王の挿絵が描かれているのだが、時折あの仮面を思い出す。あるいはそれこそ、昔大学の哲学の授業で習った、ペルソナという言葉が想起される。夏祭りで売っているあの安いプラのお面みたいにファンシーならまだいいのだが、ああいう狂気じみた笑顔ばかり作っている自分というのは、なんというか、もう、いまいちすぎる。それこそ、温かみに欠けている作り物って感じだ。

 しかも参ったことに、長い間そんな具合でやってきたために、私はどうもまともな笑顔というものの作り方を忘れてしまったらしい。実際演劇をやっていた頃も、演出の人間を随分苦労させた。しかしやり方が分からないのだからどうすればいいのか分からない。自分で言うといかにも説得力や現実味にかけるが、当たり前のことが抜け落ちているというのは実に面倒臭いことだ。いったいいつからこうだったのか。周りに話を聞くと、無意識の時はごく普通に笑っているらしい。要するに狙ってできないだけなのだ。しかしそれだけで十分、やりにくいものである。例えばそれこそ、写真を撮るときに。

 更にもう一つ、面倒なことがある。笑顔の作り方を忘れたら、普通の笑い声さえ忘れかけてきた。なんだか、喉に引っかかったようなへんてこな笑い声になる。どこでいかれたんだか。

 あーあ。

 

 

 実際のところ、できるときとできないときがあるというのは、不思議なものだ。自分が入れ替わっているんじゃないかと感じる。

 このブログを初めて書いたとき、自分が何人もいるような感覚がある、というようなことを書いたが、あの感覚だ。つまり、まともに近い自分と、いかれている自分が入れ替わっている。というより、誰かの前だといかれている自分だけがいて、そうでないときはまともな自分も出てくる、と言うべきだろうか。厳密にはっきり分かっているわけじゃないのだが、まあなんとなくそんな風に思われる、という話だ。だって大体いつも上手くいかないし。

 はっきり言うべきかもしれない。つまり私は自己矛盾を抱えているのだと。だがそれは言い過ぎと言うべきだろう。自己嫌悪が過ぎる。ただ深夜のテンションで落ち込んでいるだけだ。そもそも、自己矛盾なんてそんなに嫌悪するものでもないのだから。二重人格なんてご大層なものを抱えているわけでもなし、何をそんなに落ち込むことがあろう。そう考えるための切り替えの場としてここを使っている。そういう意味で、ここは便利だ。

 自己矛盾なんて、誰だって多かれ少なかれ抱えている。生きるためになんの必要もないことをわざわざやることだって、突き詰めれば矛盾だ。そもそも理性と本能という、ほとんど対極に位置する二つを、頭蓋の中のちっぽけな脳味噌に詰め込んでおいて、何を今更という感じすらある。恐らく少なくともこの日本に生きている一般市民なら誰だって一度は、便利だと分かっている文明社会から遠ざかってみたいと感じたことぐらいあるだろうし、若者は一度は何かしらの悪行に手を染める。それだって矛盾にカテゴライズするのは不可能じゃない。世の中を斜め45°から見るひねくれ者の手にかかれば、これぐらいの粗は重箱の隅をほじらずともいくらでも見つけ出せる。矛盾なんて、道ばたの小石みたいなものだ。ありふれきって見向きもされない。

 そんな程度のことが、しかし心に引っかかることがままある。

 小石も、道に落ちているだけならどうということはない。しかし靴の中に入り込んだら、歩みを止めて靴を脱ぎ、わざわざ出さなければならないほど鬱陶しくなる。よく心の痛みを棘に例える人がいるが、あんな感じだろう。見過ごすばかりの小さなものも、蝕んだり刺さったり、色々と厄介な要素を隠している。まして、蹴躓いたならもっと面倒だ。なにせ、もう一度立ち上がらなければならないのだから。

 世間ではそれを、逮捕とか、失敗とか、敗北とか、最近では引きこもりとか言ったりする。

 

 

 生きることの面倒臭さ、みたいなものを結構このブログでは書いてきたように思うが、尽きないものだと思う。この先延々と、これらを片付けながらやっていかなくっちゃならない。こういった場や、他に様々なもので誤魔化し放り脇にどけながら。

 それの合間に、回復役、というか活力めいたものとして幸せというものがあるのだと思うが、しかし実際、幸せを実感するのは非日常の時ばかりだ。面倒ごとに直面する肝心の日常でいつも思うのは、幸せになりたい、という、薄暗く消極的なことである。今が幸せだとは思えないという、隠しながらの意思表示。ぼつぼつそれも、止められるようにした方がいいかもしれない。

 今のまま生きていけたらどんなにか楽しいか。しかしそれは、夢でさえない憧れだ。

 とりあえず今は、こう考えるようにしようかと思っている。今すぐに実践は難しいだろうから、まあ、一生かけることになるかもしれないが。まあ、早めにできるようにはなりたい。そうできる自分だとぐらいは、自分のことは信頼していたい。今のままでも大丈夫だと。

 いまはまあ、そこそこ幸せだ。

 だからもっと、幸せになりたい。

 少なくとも、今まで楽しいことが、一つもなかったなんてことはなかったから。