Star Inn Tokyo日記 2
バイト三日目。初めてほぼ全部一人で作業した。ここでの寝起きも存外すぐ慣れたが、それでもやってくるお客と相対するときはかなり緊張する。なぜならほぼ全員外国人だから。TOIEC450の拙い英語力じゃあ、Google翻訳が手放せない。それでもやりきれるから、世の中は鬼がいないと思える。
ここでの業務の基本は、大体以下4つだ。
1 シーツの取り込み。
2 ベッドメイキング
3 掃除、備品チェック
4 お客様の案内
ほぼこれだけ。と言ってもサービス業であるからイレギュラーはつきものである。今日も早速あったり、まだ連泊のお客さんの顔を把握し切れてなくて思わぬ間違いがあったりもする。そこはまあ、初心者のご愛敬だ。
それでも大体、昼のうちに作業はあらかた終わる。空いた時間は自由に使えるので、もっぱら一階のフリースペースでネットサーフィンに興じたり、本を読んだりしている。余談だが、この夏に読もうとしている本のラインナップがジョージ・オーウェル「1984年」夢野久作「ドグラ・マグラ」サミュエル・ベケット「ゴドーを待ちながら」と、やけに暗いラインナップになった。まあ、読み応えがある本ばかりなので読んでいてちっとも退屈しないが。
民泊の安さ故、そして都心への近さ故、ここの利用客は前述のように大半が外国人だ。これまであっただけでも、台湾、フランス、中国、タイ、アメリカ。これから更に増えるだろう。もっとも、多いのはアジア圏だ。中には少しなら日本語が分かる人がいて、そういう人たちとは少しばかり話が弾むこともある。何気なく流していたウルトラマンの主題歌に、台湾人の若い男性がぼそりと「ウルトラマンガイア・・・・・・」と呟いたときは、おもわず振り向いてしまった。特撮とは素晴らしい文化だ。
食事は自分で確保することになる。一応キッチンもあるのだが、結局大抵、買い食いか外食だ。近くに素晴らしく安い弁当屋があるので、そこをちょくちょく使っている。終夜開いているので、お客の中にもよく買ってくる人たちがいる。あとは、野郎御用達といった感じのごつい料理が多い。定食屋が一番いい。野菜も付いてお腹いっぱいだ。
青砥の町は、わりに夜が早い。夜10時を過ぎると、チェーンを除く大半のお店は店じまいだ。しかしお客様がやってくることが遅いことも多いので、私の生活は必然遅くなりがちである。昨日も今日も、夕食はラーメンだった。この夏は太りそうだ。返ったら運動しなければなあ、と思う。あっちじゃいつも自転車漕いで生活してるので、太るなんて全然気にしないのだ。都心の人間に肥満やら高血圧やらが多い気がするのは、そんなところにも理由があるのだろう。
・・・・・・・・・・・・まだ若いのに、悩みが女子めいている。一人暮らしをしているとつくづく思うが、どんどんどんどん家庭的な思考に切り替わっていくのだ。洗濯物が干せないから雨は嫌だな、と思うことが当たり前になって久しい。まあ、そういう行動原理が身につきつつあるからこそ、こういったバイトがあまり気兼ねなくやれるのかもしれない。実際、やることが家でやることと大差ないのだから。
今夜は、夕食のあとで一杯だけ酒を飲んできた。店で飲む酒は、缶ビールの何倍も美味い。たとえ貧乏でも、このうれしさを忘れたくはない。そして煙草が吸える店に、なくなってほしくないと密かに願う。
イレギュラーあれど、一人の夜。
帰ってきたお客に、通じなくても「おかえり」と言うようにして気づく。
シチュエーションと表情だけで、意図は存外通じるものだ。
簡単なことに限る、が。
Star Inn Tokyo日記 やってみよう。
約一ヶ月更新を止めた間に、世間はすっかり夏休みになった。今年はどこもかしこもやたらと暑い上に、なにやらあちこちで災害だ事故だと大騒ぎしている。幸いにしてそういったものと縁のない平和な生活をしているが、思いを馳せるとはなかなか難しいものだ。
さて、今日からはしばらく頑張って、毎日更新してみようかと思う。
昨日から、東京都葛飾区青砥にある「Star Inn Tokyo」という民泊で住み込みのアルバイトを始めたのだが、なかなかどころじゃなく面白いところだったので、せっかくだからこのブログでちまちま日記っぽく書いてみようと思った次第だ。
以下経緯。
そもそもの始まりは、長い付き合いの友人からの連絡だった。彼が働いている民泊で人手が足りないので、手伝いに来てくれないか。住み込みでも構わない。ということだった。
何度かブログ内で書いたように私は現在絶賛一人暮らし中なので、さらなる稼ぎ口を求めていた。というか金欠だった。そういう状況だったので、生活費を浮かせられてかつ金も入ってくるという話はまさに渡りに船だった。
というわけで早速昨日、田んぼと星空の田舎にしばしおさらばし、建物ばかりの東京へとやってきた。東京にはちょくちょくやって来るが、着いたときにいつも思うのは、空気が不味い、ということだ。田舎暮らしが長くなると、東京のような都会はしんどくなる。
新宿から山手線で日暮里、そこから京成線で青砥、辿り着いた初めての町は、せせこましく賑やかな下町だった。有り得ない安さの弁当屋、狭い路地に立ち並ぶ居酒屋、道ばたで寝転ぶ野良猫たち、人々の生活感がそこかしこに溢れている。その光景は心地よかった。
しばらくの間の職場となる「Star Inn Tokyo」は民泊なので、いわゆるホテルのような漢字の建物ではなく、それだと言われなければ見間違いそうな、民家そのものといった二階建ての建物だった。そんな佇まいに、中に入る前からもう、楽しみを感じた。
では、ちと長くなるが中のことを書いてみる。写真を取り損なったので、文章だけなのはご愛敬で済ませてほしい。
まず狭い引き戸の玄関を入ると、すぐそこに共用のキッチンとフリースペースへの入口がある。フリースペースには巨大なテレビと二つのソファ、テーブルも二つと椅子五つ。テレビの下の棚には、スーパーファミコンとニンテンドー64とWiiが仲良く同居している。既にまあまあカオスな光景だった。フリースペースの隣は一段高くなっていて、そこは扉一つ隔てて四人が泊まれる畳敷きの客室。もちろん寝具は布団だ。試しにごろごろしてみたが、久しぶりの畳はやはりよかった。日本人の寝心地好みにぴったりくる。
さて、一階を奥へ進むとシャワールームと従業員倉庫、そして狭く急な階段。それを上れば、客室という名の二段ベッドが溢れる二階へ入る。まず階段を上がった正面に二つ目の、かつ浴槽つきのシャワールーム。その右斜め前に二つのトイレがある。階段を上がると一本の廊下、そして右側にはまずコインランドリーと洗面台、更に客用の小さなロッカー。その次には屋上への階段があり、そして唯一二段以外のベッドを備える、ダブルベッドの部屋がある。文字通りダブルベッドがでん、とあるだけだ。
そして突き当たりには、二つの部屋へのドアがある。どちらの部屋も二段ベッドでぎっしりだ。廊下の左側にあるもう一つの部屋はドアがなくそのまま入れるが、そちらも二つの二段ベッドの間に狭い通路があるばかりで、本当に泊まることのみに特化した構造である。ま、民泊とはすべからくそういったものであるが。
あとは建物ばかりの景色が見える屋上がある。そんな小さくも楽しい場所が、八月いっぱいの俺の寝床兼職場だ。今は今日の客さんたち全員部屋に入って、一人フリースペースで過ごしている。ほどよい広さで、落ち着く空間だ。
仕事の内容や出来事も、これから少しずつ書いていくことにする。こんなことをするのは初めてなので、面白からずとも苦情は勘弁。
ただ、今年の夏は、今までより刺激が多そうな気がする。
こんなことやり出すくらいには。
好きなもの? フィリップ・マーロウ
この間、文豪について書いたが、その続き、でもないかもしれない。
せっかくこんなことをしているし、たまには偉そうなこともしてみたくなった。
私の好きな作家と、その作品について、ここに書いてみたい。
作家の尊名は、レイモンド・チャンドラー。
そして主人公の名はフィリップ・マーロウ。ケイシー・ライバックとは違う意味で、世界最高峰のタフガイである。
いきなり始めるのは失礼なので、一応まずは、軽く説明から。
チャンドラーは既に没後50年以上経っている作家であるから、今時の作家、というわけではない。しかし現代、そしてこの日本においてでもチャンドラーのファン、いわゆるチャンドラリアンを自称する人々は数多い。著名なところでは「新宿鮫」シリーズで知られる大沢在昌氏や、「水滸伝」「岳飛伝」などの著者(ホットドッグプレスと言ったほうが分かる方も多いか)北方謙三氏が公言しているほか、近年では村上春樹氏による積極的な翻訳が行われ、これまではほぼ清水俊二氏の訳のみ(「大いなる眠り」のみ、双葉十三郎氏訳のもののみだった)であったチャンドラー作品に新鮮な息吹を吹き込んでいる。この新訳は、清水氏以後実に50年以上の時を経ての刊行となった。近年でもなお、ハードボイルド小説の一つの到達点として、チャンドラーの作品は専門家一般問わず、高い評価を受けている。
我が国におけるチャンドラー作品の人気は、ひとえに清水氏によると言っても良いかもしれない。「さらば愛しき女よ」に代表されるどことなく馴染みやすいタイトル。英語の原文が持つ、感情表現を極限まで廃した独特の味わいを損なわない見事な訳。そしてその訳によって生まれた、数々の名文。チャンドラーを知らずとも、その中で生まれた名文の文句だけなら聞いたことがある、という人も多いだろう。これについては、後半でもいくつか例を挙げる。
若者に分かりやすい最近の例がある。アニメを見る人々なら多くの方がご存じであろう、コードギアスシリーズ。最近再編集された総集編三部作が劇場公開され、記憶に新しいあのアニメで、主人公ルルーシュのこんな台詞がある。
"撃っていいのは、撃たれる覚悟のあるやつだけだ"
以下該当シーン。
コードギアス ルルーシュ 短編名ゼリフシーン 「打っていいのは打たれる覚悟のあるやつだけだ」
作中でも名シーンの一つと名高いこの場面で彼が口にしたこの台詞も、元ネタはチャンドラーなのである。チャンドラーの長編第一作「大いなる眠り」で、主人公マーロウがこれと同じ台詞を口にしている。我が家にある村上春樹訳においては、このように訳されている台詞だ。
"「ただしもっと射撃がうまくなるまで、人を撃つのは控えた方がいい。それが忠告だ。覚えたかい?」"(ハヤカワ文庫版342ページ)
いかんせん場面が場面な上、マーロウがこの台詞を言っている相手がヤクザなどではなく、いささかどころじゃなくアブナイ資産家のお嬢様というのもあるが、全然違う台詞じゃないか、とお思いの方も多かろう。しかし、そもそも有名になっているほうの訳も、相当な意訳なのである。原文そのままの意味としては
「だがいいかい。決してそいつを人に向けて撃つんじゃないぜ。自分が撃たれても構わないというんじゃない限りな」
と、いうような意味の文なのだ。これを意訳した結果が、現在流布しているあの文章である。確かに、主人公の決めゼリフとしては日本語らしくまとまった形のほうがいいということなのだろう。英語の原文そのままの意味では、いかにも長ったらしくてアニメなどには向くまい。
ちなみに上記の台詞は、コードギアスシリーズ全体を通してのテーゼともなっている非常に重い台詞である。細かく言うとネタバレに言及することになるのでここでは話さないが、お世辞抜きで非常に面白いアニメなので、未視聴の方は是非見てほしい。
さて、閑話休題。
チャンドラーはもともと、アメリカにおけるパルプ誌での短編小説で出発した遅咲きの作家であり、生涯で執筆した長編は七本に留まっている。そのすべてがマーロウものなのだが、そのうち六作品までが現在までに何らかの形で映像化がなされているというから、その人気のほどが窺い知れよう。ちなみに小説家となる前は、ハリウッドで映画の脚本に参加していた時期もあったという。
しかし、その人気に水を差すような気がしないでもないのだが、チャンドラーの作品に「ミステリー」としての面白み、すなわち「主人公が不可解な事件に敢然と立ち向かい、鮮やかに謎を解決する」といった類の楽しさを見出すのは、難しいかもしれない。というのも、特に第5長編「かわいい女」(村上春樹による新訳題「リトル・シスター」)に顕著なのだが、チャンドラー作品においては、謎が謎のまま解決されない、ということが散見されるのである。有名な逸話としては、第1長編「大いなる眠り」を映画化するにあたり、監督を務めたハワード・ホークスがチャンドラーに「この殺人(作中では何度か殺人が起きるのだが、そのうちの一つ)の犯人は誰なのですか?」と尋ねたところ、チャンドラーが「私も知らない」と答えた、というものがある。やや極端な逸話だが、チャンドラー作品とはそういったものだ、ということだ。
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余談だが、上記のハワード・ホークス監督による映画は、ハンフリー・ボガートとローレン・バコールを主演に迎え、日本においては「三つ数えろ」という邦題で界隈では有名な作品となっている。ボガートが、マーロウというにはいささか背が低く、かつ若くもない(実際このために、作中冒頭のマーロウの身長に言及したやり取りが小説と映画では異なってしまっている)のだが、渋さの中に熱さのこもった大変いい演技を見せてくれている。こちらも御覧になるとよろしいかもしれない。40年代のモノクロ映画だが、控えめに言って大変面白い。
しかし、私は必要とあらば何度でも言うが、チャンドラー作品の面白さは一つ一つのシーンすべてにある。私はずっと感じているのだが、チャンドラーの作品にはどこかしら、斜めな部分がある。誰もが何かを抱え、それ故にまっすぐではなく、どこか歪んだ、しかしそれでいて完成された、どうにも述べにくい独特の雰囲気を作り出している。作品全体に満ちているその雰囲気こそ、チャンドラーの最大の魅力だと私は感じて止まない。
そして、その作品世界の象徴が主人公、フィリップ・マーロウである。
彼のプロフィールを一部紹介しよう。ロサンゼルス在住の私立探偵。チェスを数少ない趣味としているが、もっぱら棋譜を並べていることのほうが多い。かつては地方検事のもとで仕事をしていた時期もあったが「命令への不服従」により辞めている。一日につき25ドル+必要経費、という薄給で、離婚問題を除くあらゆる仕事を請け負う。時には頭をどやされ、銃を突きつけられ、警察に睨まれ、監禁されることもある。ひどいときになると、麻薬漬けにされて怪しい病院に放り込まれたり、たった一人でギャングの元締めが取り仕切る船に忍び込まなくてはならなくなることもある。それでも自分の定めたルールのみを頼りに、時には高額の依頼金を突き返してまで、自分の目指すゴールを諦めない。そんな魅力溢れる本物のタフガイが、この物語になんとも言えない素晴らしい味わいをもたらしている。
その味わいの最たるものが、マーロウが使う独特の台詞回しだろう。誰に対しても決して媚びないこの男の、皮肉とウィットをふんだんに効かせたまさしく斜めな台詞の数々は、いくつもの名言を生み出してきた。以下、いくつか例を挙げてみよう。
なお、引用はすべて村上春樹による新訳版からである。
"「男ってみんな同じなんだから」" "「女だってみんな同じですよ。最初の九人を別にすれば」"(「さよなら、愛しい人」357ページ)
マーロウは、金持ちの女を好かない。ことに金持ちで高飛車かつプライドが高い女に対しては一切容赦しないのだが、これはその一つ。強烈な返しである。しかもそれでいて、そういった女たちからマーロウは例外なく好意を寄せられている。余程相性がいいのか、悪いのか。
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"「もう乗った方がいい」と私は言った。「君が彼女を殺さなかったことはわかっている。だからこそこんなこともするんだ」"(中略)
"「すまない」と彼はひっそりと言った。「しかし君は考え違いをしている。これから飛行機に向かってとてもゆっくり歩いていく。とめるための時間はある」"(「ロング・グッドバイ」ハードカバー版51ページ)
チャンドラーの最高傑作と言われる「長いお別れ」は、一口に言ってしまえば男同士の友情がすれ違う話である。結局マーロウは彼を追わないのだが、この別れのあと、極めて困難な状況と哀しい結末がマーロウと読者を待ち構えることとなる。しかしそのただ中にあってもマーロウはあくまでもタフだ。例え相手が悪警官でも、高名な弁護士でも、誰も逆らえない大富豪でも。そのタフっぷりたるや、自分が納得できないがためだけに、マディソン大統領の肖像に見向きもしなかったほどである。そしてそれらの、敵を増やすばかりに思えるタフぶりの理由はすべて、自分を友と呼んだたった一人の男を信じると決めた、自身の決断ただ一つだけなのである。それだけで何者をも相手に回して戦える、それがマーロウの強さなのだ。
(以下の商品は文庫版である)
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"さよならを言うのは、少しだけ死ぬことだ"(同上512ページ)
恐らくマーロウの台詞の中では、群を抜いて有名な一文。マーロウ自身がフランス人のひとことだとしていることから、フランスの詩人、エドモン・アロークールの一節がもとであるともされる。
自他共に認めるタフガイのマーロウだが、時折脆い部分を覗かせることがある。「長いお別れ」の中で、彼はそんな人間らしさをたった二人の人間にだけ垣間見せた。これは、そのうち一人と別れた直後の彼の独白。自分に従って生きている彼にしては珍しく他者の言葉を借りた台詞であり、皮肉無しの哀しみをせめて僅かにでも、と隠しているかのようでもある。
"涼気の感じられる日で、空気は透明だった。遙か遠くまできれいに見渡すことができた。しかしさすがにヴェルマが向かったところまでは見えなかった"(「さよなら、愛しい人」467ページ)
物語の最後、すべてが終わり、警察署を出た直後のマーロウの独白。
チャンドラーの作品は、詩的かつ独特の情景描写が随所に使われ、そのいずれもが作品世界にさりげなく美しさと鮮やかさを添えている。しかしそれらのなかにあっても、この1文の完成度は卓越していると言っていいだろう。しかしただこの文を取り上げるだけでは、そもそもヴェルマが誰かも伝わらない。ぜひ本書を一読し、この文章の真の意味を感じ取っていただきたい。
まだまだたくさんの魅力的な文章が、マーロウシリーズには詰まっている。最近では新訳が出版されたおかげで図書館などにも比較的シリーズが並ぶようになってきているし、是非一度、どれでもいいので一冊手にとって、その面白みと魅力を味わってみてほしい。損はしない、はずだ。
もちろん、世の中に例外はつきものだ。肌に合わないならそれはそれでしかたがない。
しかしもし、この記事をきっかけにチャンドラリアンが一人増えたとしたら、それは私としても、私事をぶちまける冥利に尽きるというものである。
最後に、恐らくチャンドラリアンの間ではもっとも有名な文章であろう、次のマーロウの一言で、この長くなった記事を締めさせていただきたい。この文章だけが一人歩きしている感もあるが、それを差し引いても格好いい台詞なのだ。(ただ、本場アメリカではこの台詞の知名度はさほど高くないらしい。日本でだけ有名な台詞なんだとか)そしてなにより、この言葉ほどマーロウの生き様を端的に表した言葉も他にない。
では。
"「あなたのようにしっかりした男がどうしてそんなにやさしくなれるの?」と、彼女は信じられないように訊ねた。
「しっかりしていなかったら、生きていられない。やさしくなれなかったら、生きている資格がない」"(「プレイバック」清水俊二訳266ページ)
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想像と文豪と創造
最近バイト終わりに煙草を吸うのが完全に習慣と化した。以前煙草を吸い始めたという話をしたら、年上の知り合いに「習慣になるから止めておけ」と言われたが、なるほど正しかった。だからどうと言うこともないのだが。しかし実際のところ、夜まで働いたバイト上がり、河原に寝転がって吸う煙草の快感といったらない。健康から後退することなど何一つ後悔しない瞬間だ。今日のような曇り空でも悪くはないが、欲を言えば本当に良いのは星空の日だ。働いたかいもあったと感じる。世の中の働く男性が、今でも一定数煙草を吸い続けているのも納得できるし、居酒屋という空間がいつでも煙草臭い理由もうなずける。だからといって納得する人間も限られているが。
例によって、最初にする話は本題とは関係ない。
文豪、と呼ばれる死んだ人たちがいる。最近某マンガ、某アニメ、某ゲームなどでとみに有名になっているから、面倒くさいことはしない。要するに、評価される小説を書いた人たちだ。
そんな彼らは、まあ例外ありきとはいえ、と言うか例外のほうが多いような気もするが、生きていた頃があり、今有名になっている小説を書いていた時期があり、そしてその小説が当時の人々の間で広く読まれ買われていた時代があった。当たり前だ。本とはそういうもので、小説家とはそういう人種である。
では翻って現代。例えば今時の有名な作家というと、大衆小説でいけば東野圭吾、伊坂幸太郎、村上春樹、森見登美彦。歴史小説でいけば少し古いが司馬遼太郎、あるいは池波正太郎。ライトノベル界隈なら鎌池和馬、西尾維新、少し違うかもしれないが入間人間、等の方々だろうか。少なくとも今現在、本を読んだことはなくともなんとなく名前を聞いたことがある、というレベルにあるのはこのあたりの皆々様ではないだろうか。もちろん、100パーセント主観だが。
今、例えば私の部屋にある文豪バトル系の某マンガを読みながら思う。
百年ぐらい経ったら、今度はさっきの人たちがこういう扱いになるのだろうか?
いや、実際もう既に、綾辻行人と京極夏彦両氏をモデルにそういった公式スピンオフ作品が存在しているそうだが、しかしこれはあくまでも今の時代の「あれ」ありきの話である。与謝野晶子が半殺しだけ治せたり、森鴎外がロリコンだったりする作品が前提となっているからあるものだ。だからここでは考慮しない。
そこで一旦そことは切り離して考えてみるわけだが、しかし一度考えてみると、これは実に、かは微妙だが、しかしなかなか面白い想像だと思う。もっとも、もう既にいろんな人がやってそうだが。まあ例えばさっきの方々でいけば、伊坂幸太郎の能力名が「アヒルと鴨のコインロッカー」、だとか、司馬遼太郎が刃物を発火させられるとか、それこそ西尾維新が一京分の一をガチでかましてくるとか、いくらでも想像ができる。村上春樹なら相手を即死させる能力とかが使えそうな気がしてならない。心が躍る。まだまだいくらでも、著名人を冒涜しかねない想像が湧いてくる。怒られること間違いないし、呆れられること確実だ。
これはマズい、というやつであろう。腐ってやがる、これは少し違うか。
だが、実際問題平成が終わりそうな今、こういった創作物がその界隈では信者を生み出すほどの人気を獲得し、オリジナルの作品を読んだことがないのにやけに詳しく作品のことを知っている、という人間が現れるまでになっているのだ。百年後、さっき上げたみたいなアホらしい妄想が具現化していないとは誰にも言えない。想像とはそういうものだ。文豪たちの作品群も、突き詰めれば想像の産物なのだから。今、大学の研究室で日々文献に埋もれている文学者たちが研究対象としているものは、つまるところ人一人の想像だ。もちろん、だからどうということではないのだが。
そもそも、昨今大人気のソーシャルゲームにしても、偉人をキャラとして採用しながら史実一切無視の擬人化や性別逆転が施されている例など枚挙するのも疲れるぐらいある。だがこれらは、無論一定数のアンチは常に存在してはいるが、ちゃんと文化として受け入れられている。なぜか? 楽しいからだ。人間は楽しければそれでよく、快感ならすべてを受け入れる。文字通り現金な生き物。無(理のない)課金とはよく言ったものだ。本末転倒なのは、それら割り切った人々が、今のところ排斥される側の立場にあるということだが。そもそものシステムを組んだゲーム会社は排斥されていないのだろうか? 今度誰かに訊いてみることにする。
結局、人一人の想像で終わっているうちが、物事の花なのかもしれない。何事も、利権が生じればもう道具になる。著作権という言葉が言われて久しいが、随分不毛な争いが展開された時代もあるそうだ。昔からつきものなのだろう。文豪たちにもきっと、そんなエピソードの一つや二つありそうである。そういう観点から考えると、書いたものがあまり世間から評価されず、本人の死後に高い評価を得た文豪たちというのは、そういう争いからはある意味縁遠かったのかもしれない。今でこそ誰にも知られている宮沢賢治も、生前は出した詩集がまったく売れず、その一部を自費で買い取ったりしていたのだそうだ。幸せだったかどうかという議論は止めるにしても、多大な苦しみの中にあることで、知らず知らずではあるにせよ、ある種の争いや厄介ごとから遠ざかっていたというのは、すべてを欲する強欲やすべてを捨て去る悟りへの道なぞよりは、まだしも人間らしさがあるようにも思われる。人間らしさと言うより、本人らしさ、とでも言うべきかもしれない。その境遇は、誰でもない彼一人のものなのだから。
ただ、そんなことまで考えてあれこれ創作していたらとても保たない。だからとりあえず、そういった部分はしかるべきタイミングまでおかれる。もしくはフォーマットされてオブラートに包まれる。何も知らない人々が、純粋に楽しめるようにするために。そのさじ加減を見極めるのが上手いのが、作られたものが流行り、受け入れられる理由になっている。
想像を創作とし、そして世に出し、受け入れられる。
文豪たちも、よくぞやってのけたものだと思う。後世の誰しもが名前だけは知ってる存在になるなんて、すさまじい偉業ではなかろうか。ま、たまに悪名が轟くやつもいるが。どっちであるにしても、生まれてきた以上、そんなやつになってみたいものだ、と、たまに思う。
ちなみに。
前半部分を読んでいて、なんだかいかれてるな、と思った人は大正解。
現在深夜三時過ぎ。
つまるところ、深夜テンションに伴う中二病炸裂タイムである。
堪えてここまで読んでくれて、本当にありがとう。
あなたの忍耐力と精神力に、もしくは面白がる遊び心に、陳謝。
今は仮面を被っていても
昨日、関東から近畿までが一気に梅雨入りしたそうだ。またしばらく、洗濯物が干しづらくなる季節になる。それが過ぎれば、虫が湧き汗の噴き出す暑い夏。思い描いただけで、冷房にかかる電気代が気にかかる。昔はもう少し、心躍った季節だったが。大人になっていってるなぁ、なんて。
突然だが、貴方は、笑顔を作ることは得意だろうか?
私は、そんなに得意ではない。
かつて一時期演劇をやっていたことがあるのだが、その時ちょくちょく言われたことの一つに「笑顔がぎこちない」というのがあった。またバイト先で「笑顔ができてない」と言われたことがある。あるいは昔撮った写真なんかを見ると、どうも私の笑顔が歪んでいる。唇の左端だけがつり上がった、仮面みたいな奇っ怪な笑顔が移っていることがままある。おまけにひどいときは、目が笑っていない。そういう時は、まんま仮面のようだ。江戸川乱歩の有名な少年探偵団シリーズの一作に「仮面の恐怖王」という作品があり、その表紙に、唇の両端がつり上がってキューッとなっているえげつない仮面を身につけた恐怖王の挿絵が描かれているのだが、時折あの仮面を思い出す。あるいはそれこそ、昔大学の哲学の授業で習った、ペルソナという言葉が想起される。夏祭りで売っているあの安いプラのお面みたいにファンシーならまだいいのだが、ああいう狂気じみた笑顔ばかり作っている自分というのは、なんというか、もう、いまいちすぎる。それこそ、温かみに欠けている作り物って感じだ。
しかも参ったことに、長い間そんな具合でやってきたために、私はどうもまともな笑顔というものの作り方を忘れてしまったらしい。実際演劇をやっていた頃も、演出の人間を随分苦労させた。しかしやり方が分からないのだからどうすればいいのか分からない。自分で言うといかにも説得力や現実味にかけるが、当たり前のことが抜け落ちているというのは実に面倒臭いことだ。いったいいつからこうだったのか。周りに話を聞くと、無意識の時はごく普通に笑っているらしい。要するに狙ってできないだけなのだ。しかしそれだけで十分、やりにくいものである。例えばそれこそ、写真を撮るときに。
更にもう一つ、面倒なことがある。笑顔の作り方を忘れたら、普通の笑い声さえ忘れかけてきた。なんだか、喉に引っかかったようなへんてこな笑い声になる。どこでいかれたんだか。
あーあ。
実際のところ、できるときとできないときがあるというのは、不思議なものだ。自分が入れ替わっているんじゃないかと感じる。
このブログを初めて書いたとき、自分が何人もいるような感覚がある、というようなことを書いたが、あの感覚だ。つまり、まともに近い自分と、いかれている自分が入れ替わっている。というより、誰かの前だといかれている自分だけがいて、そうでないときはまともな自分も出てくる、と言うべきだろうか。厳密にはっきり分かっているわけじゃないのだが、まあなんとなくそんな風に思われる、という話だ。だって大体いつも上手くいかないし。
はっきり言うべきかもしれない。つまり私は自己矛盾を抱えているのだと。だがそれは言い過ぎと言うべきだろう。自己嫌悪が過ぎる。ただ深夜のテンションで落ち込んでいるだけだ。そもそも、自己矛盾なんてそんなに嫌悪するものでもないのだから。二重人格なんてご大層なものを抱えているわけでもなし、何をそんなに落ち込むことがあろう。そう考えるための切り替えの場としてここを使っている。そういう意味で、ここは便利だ。
自己矛盾なんて、誰だって多かれ少なかれ抱えている。生きるためになんの必要もないことをわざわざやることだって、突き詰めれば矛盾だ。そもそも理性と本能という、ほとんど対極に位置する二つを、頭蓋の中のちっぽけな脳味噌に詰め込んでおいて、何を今更という感じすらある。恐らく少なくともこの日本に生きている一般市民なら誰だって一度は、便利だと分かっている文明社会から遠ざかってみたいと感じたことぐらいあるだろうし、若者は一度は何かしらの悪行に手を染める。それだって矛盾にカテゴライズするのは不可能じゃない。世の中を斜め45°から見るひねくれ者の手にかかれば、これぐらいの粗は重箱の隅をほじらずともいくらでも見つけ出せる。矛盾なんて、道ばたの小石みたいなものだ。ありふれきって見向きもされない。
そんな程度のことが、しかし心に引っかかることがままある。
小石も、道に落ちているだけならどうということはない。しかし靴の中に入り込んだら、歩みを止めて靴を脱ぎ、わざわざ出さなければならないほど鬱陶しくなる。よく心の痛みを棘に例える人がいるが、あんな感じだろう。見過ごすばかりの小さなものも、蝕んだり刺さったり、色々と厄介な要素を隠している。まして、蹴躓いたならもっと面倒だ。なにせ、もう一度立ち上がらなければならないのだから。
世間ではそれを、逮捕とか、失敗とか、敗北とか、最近では引きこもりとか言ったりする。
生きることの面倒臭さ、みたいなものを結構このブログでは書いてきたように思うが、尽きないものだと思う。この先延々と、これらを片付けながらやっていかなくっちゃならない。こういった場や、他に様々なもので誤魔化し放り脇にどけながら。
それの合間に、回復役、というか活力めいたものとして幸せというものがあるのだと思うが、しかし実際、幸せを実感するのは非日常の時ばかりだ。面倒ごとに直面する肝心の日常でいつも思うのは、幸せになりたい、という、薄暗く消極的なことである。今が幸せだとは思えないという、隠しながらの意思表示。ぼつぼつそれも、止められるようにした方がいいかもしれない。
今のまま生きていけたらどんなにか楽しいか。しかしそれは、夢でさえない憧れだ。
とりあえず今は、こう考えるようにしようかと思っている。今すぐに実践は難しいだろうから、まあ、一生かけることになるかもしれないが。まあ、早めにできるようにはなりたい。そうできる自分だとぐらいは、自分のことは信頼していたい。今のままでも大丈夫だと。
いまはまあ、そこそこ幸せだ。
だからもっと、幸せになりたい。
少なくとも、今まで楽しいことが、一つもなかったなんてことはなかったから。
春より温い、暖かさによって
脳味噌が、ぼんやりする。早起きしたせいだ。
窓の閉め方が甘かったのか、今朝6時頃、ぐっすり眠り込んでいる私の部屋の中にハチが侵入した。鬱陶しい羽音を撒き散らかし、閉め切ったカーテンの内側でばたばた暴れて私を眠りからたたき起こした。ぶち切れたので枕元のティッシュを掴んで迅速に駆除し、死骸を窓の外へ放り投げてもイライラは収まらない。結局散歩をして煙草を一本吸い、ようやっと落ち着いた。そもそも六時に目覚めるような超健康的生活を営んではいないので、朝日の眩しさがむしろキツい。いつの間にやらすっかり夜型の体質へ変貌していたのに気づくのも、やっぱりややキツい。確実に私の生活は、健康から遠ざかっている。まあ別にいいけど。
こうして虫が出てくるようになると、暖かくなってきたなと実感する。そろそろ夏服を引っ張り出さねばならない。埃が立つから好きじゃないのだが、暑さには耐えきれない。
私はどちらかといえば寒がりの人間だから、暑さはさほど嫌いじゃない。だが虫は、 チョウやカブトムシみたいな一部例外を除いて好まない。もともとアブ、ハチやハエといった羽虫の類は鳥肌が立つ音をたてるので好みじゃないのだが、今日の一件で決定的に嫌いになった。ホントもうなんなのアイツら。粉微塵に吹き飛んでしまえ。
ま、ともかく。
今日の話は虫じゃない。
食事、についてだ。
私は一人暮らしだ。
一応、ある程度の自炊をしている。料理に隠し味をつけてみたりしているとか、一週間分作り置きしているとかそのレベルではないが、それでもほぼ毎日料理をするし、米も炊く。昔は出来合いの総菜で済ませることもしばしばだったが、最近はめっきり減った。結局総菜の方が値段が高いことの方が多いし。
ただ、そんな程度の腕だから、レパートリーはそんなに多くない。そもそも何をするにも貧乏根性丸出しの人間なので、自然できる限り安いものを選ぶ方へシフトしていってしまう。私が一番よく使う野菜はタマネギとモヤシだ。だって安いから。
更に言うなら、洗い物も減らしたい。一人分とは言え、洗い物の面倒くささは馬鹿にならない。多分一人暮らしの人間の中に料理を放棄する人間が一定数いるのは、洗い物が面倒だからだろう。この点は、いろんな人から共感を得られると信じている。実際夕飯のあと、流しの中にフライパンや炊飯器のお釜や食べ終わった食器がみっしり入っているのは、いつまでたってもげんなりくる光景だ。
というわけで、そんな面倒くさがりの私の定番は丼である。安上がりで食器の数も少なく済み、野菜も肉もいれられる。大抵の食材は、炒めて卵でとじてしまえばなんとかなるものだ。
翌朝の朝食は大体、残した米を温めて納豆ご飯にする。それと一緒にインスタントの味噌汁。納豆は、ご飯のお供としては私が知る限り最も安く、食事の量が増え、栄養価が高い。実家にいた頃は漬け物とかの方が好みで、納豆はあまり好きじゃなかったのだが、自炊を始めてからはほとんど毎日のように食べている。不思議なものだ。
ただ、最近気づいた。
飽きてきている。確実に。
ことに朝食だ。この間など、なにか粘土のようなものを噛んでいるかのように感じた。味がほとんどせず、味噌汁も水同然に感じる。朝食を食べ終わるまでがひどく長く、窓の外の景色を眺めながら「なんだこれは」とずっと考えていた。
こういうとき、対策は簡単だ。何か別のものにしてしまえばいい。丼なら味付けを変えるだけでもいいし、なにもご飯のお供は納豆だけじゃない。世の中にはスーパーマーケットという便利なお店があって、大体のものは手に入る。まして料理の種類など、人一人が食べきれないほどいっぱいあるのだから。人間が、その歴史の中で積み上げてきたのはつまるところ、長い人生に飽きないための様々の手段、と言ってもいい。我々はゾウガメと違って、ただのんびりと島の中を歩き回り、たまに甲羅に首を引っ込めたりするだけの生活に意義を見出せはしないのだ。だから、感覚を変える方法を、我々人間は豊富に持っている。それを使えば済む話だ。
ただ、思う。きっと飽きだけではないと。
多分、一人きりでいるせいだ。
たまに誰かと食事をすると、食べていたことを忘れることがある。要するに、話したりなんだりに熱中してしまって、ということなのだが、それは一人ではできないことだ。独り言を喋り続けながら食べるわけにもいかないし、第一そんなのどうやればいいのか分からない。だから一人の夕飯も、その次の日の朝食も、むっつり黙って食べるしかない。そんな中で同じようなものをずっと食べていれば、飽きは倍速でやって来る。それこそ、味を感じなくなるほどまでに。
最近、我が家の小さな棚に調味料が増えてきた。そんなことすら、たまに空しく感じるときもある。思いつきで、いつもと違う料理にチャレンジしてみる。確かに美味しいのだけれど、その感覚がどこか遠くのことのようでもある。そんな折々に、確実に蝕まれている、と感じる。孤独とは、つくづく厄介な病だ。
ガラパゴスのゾウガメは、その長い生涯を、何を思いながら過ごしているのだろう。彼らもまた絶滅の危機に瀕している生物の一種だそうだが、仲間に会えることも少ない中で、何が彼らを退屈から呼び戻しているのか。人間は、こんなに飽きっぽいというのに。いやそもそも、彼らは退屈を感じているのだろうか?
背後で米の炊けたことを知らせる電子音がした。
私の家では、米もそんなにいいものは無い。スーパーで売っている、安い米だ。
でも、自分で炊くと、そんな米でも存外悪くない。
長ったらしい話はここまでにして、夕飯を作ることにする。
今夜は、麻婆丼を作る予定だ。豆腐もやっぱり、安いのでちょくちょく使う。
でもいつか、この狭い家が、誰かの手料理が待っている家になったら。
長い時間の中では、時にそんな、甘ったるい考えが浮かぶこともある。
暖かくなってくると、脳味噌も緩んでくるらしい。
早朝のトイレ掃除後に私が考えていること。
現在午前六時半。窓の外の太陽がやたら眩しい。
徹夜は、まあ当たり前だが、体に悪い行為だ。まして朝の五時半に部屋と風呂とついでにトイレの掃除までやったら、体内時計がめちゃくちゃになること必至。
昼が不安だ。
思いっきり寝そう。というかもうやや眠い。
前回更新したのがいつだったか思い出せなかったので見返してみたら、アメリカ行く前に更新したっきりだった。ので、アメリカでのことでも書こうかと思ったが、ここ三ヶ月ばかり話せることも話せないことも色々あったので整理が追いつかず、何を書けばいいやら分からない。
さしあたって時節の話から。便利だ。
四月。きっと誰も彼も、出会いや別れや新生活に忙しくしていることだろう。とりあえず私は、周りが本格的に就活を口にし出したのでそれに辟易している。働きたくない。全然楽しくなさそう。意味が分からん。
こんなことをほんの五年前ぐらいはもっと頻繁に口にして、そのたびに教員親その他年上の大人たちからちょくちょくこう言われていたのを覚えている。
「そんな甘えたことを言うな」
ま、ごもっともごもっとも。実にその通り。
昔アダムとイブが楽園でやらかしてからこっち、我々は働き続けなくちゃいけないということになっているのだ。そもそも今の社会形態は、大多数が末端の仕事に従事することで成り立つようにできている。いまさら十幾つのガキがこんなこと言ったところでどうこうなりもするまい。諦めろってことであるし、イライラするからこれ以上騒ぐなということだ。参った参った。昔長期休みに家でだらだらしていたら母親がイライラを隠そうともせずに怒鳴ってきたことがあったが、大人というのは余程働くのが苦痛なのだろう。金を稼ぐことの代価は、そこまで心身を磨り減らさねばいけないものなのか。あーやだやだ。
そして何より嫌なこと。
世の中金で回ってる。
金を稼ぐためにバイトしていると本当に痛感するが、バイト先にやってくるお客はみな、応対している私のことをその道のプロだと信じて疑わない。聞けば何でもちゃんと分かると思っているし、こちらの機嫌を損ねることなんてするはずがないと頭から信じ込んでいる。こっちは正社員ですらないというのに、なぜ一つ一つの食材の産地などをいちいち事細かに知っていると思うのだろう? 人手不足でただでさえ大変なところにそういう疑問をぶつけられるとき、心中憤らずにはいられない。理不尽かもしれないし、人でなしかもしれないが、キレたくなるものはキレたくなる。
この間など、サシで私に説教してきた客までいた。どうやらその人の価値観に私はひどくそぐわなかったらしい。例えばこう言われた。
「君、そのままじゃこの先、社会でやっていけないよ?」
大きなお世話だ。
「君、学校ではなにやってたの? 文化部? ダメダメ、運動部で心を鍛えなきゃダメだよ、人間は」
そっちの価値観など知るか。
「君、そんなやり方でずっとやってきたわけ? 友だちとかいるの? いないでしょ?」
あんたが私の何を知ってるんだ?
・・・・・・・・・あんな人間が世の中にいるのか。それが率直な感想だ。
あれほどカンに障る人間も珍しかろう。私に落ち度があったのかもしれない。しかしそれは、ここまで自分のいろんなものを蔑ろにされなければいけないほどのことだったのか。ここまで否定されなければ許されないほどのことを私はしたのか? まったく、漫画の中でしかお目にかかれなさそうなほど、神経を逆なでしてくる人間だった。以前女にひどい目に遭わされた話をしたが、私の厄はまだまだ残っていたようだ。まだ四月の終わり。あと八ヶ月、私にはどんな災難が降ってくることやら。
本当、参った。お祓いにでも行くべきか。しかしこの場合、何を祓ってもらえばいいんだ?
まあ、いきなり愚痴をぶちまけたが、なにも悪いことばっかりってわけでもない。例えばアメリカ。ツアーに参加していたのだが、メンバーみんな実にいい人たちで、アジア圏からの参加者が私だけという状況の中、私の拙い英語に根気よく付き合ってくれた。二週間の間まったく日本語が通じず、一人での海外旅行は初めてで、空港へ着くなりホテルへの行き方探しに一時間近く費やしたりしていたが、それでもどうにか過ごせた。ツアー初日にハリウッドでいきなり写真撮影の客引きに捕まって二十ドル近くもってかれたりしたし、帰る日に空港まで行くために取ったはずのシャトルの予約が取れてなかったりしたけれど、グランドキャニオン凄かったし、飲み屋のカラオケでスティービー・ワンダー歌ったりした。見知らぬおばちゃんに抱きつかれたのにはびびったけど。
サンディエゴでは海岸沿いをレンタサイクルでぶっ飛ばし、フェニックスでは通りがかりのおばちゃんに煙草を分けてもらい、ウィリアムズではホテル内のプールでウォツカのロックをあおって悪酔いし、ラスベガスではモノホンの銃をぶっ放し、サウスレイクタホではスキーリゾートでスキーに行かずに湖を眺め、サンフランシスコの空港でどこのターミナルが行くべき場所か分からなくなった。書いてて随分色々あったなと思うし、まだ色々あった気がする。
しかも、この三ヶ月の間にあったことはアメリカ行きだけじゃない。まだまだある。例えばラオスとタイ一週間旅行。文化、人間性、自分のためになること盛りだくさんの実に貴重な経験だった。親父ありがとう。
ま、なんにせよ。
嫌なことはある。嫌なやつもいる。
そもそも大人という存在自体、気にくわない部分が多すぎる。そしてそうなるまいといくら努力しても、勝手に我々は大人になり、勝手に子どもに憎まれる。
いろんな事がもう半ば分かってる。まして哀しくなることなんて、それこそいくらでもある。
でも、今のところ、生きていくことはさほど悪くない。
海の向こうでも、大丈夫だったし。