想像と文豪と創造

 最近バイト終わりに煙草を吸うのが完全に習慣と化した。以前煙草を吸い始めたという話をしたら、年上の知り合いに「習慣になるから止めておけ」と言われたが、なるほど正しかった。だからどうと言うこともないのだが。しかし実際のところ、夜まで働いたバイト上がり、河原に寝転がって吸う煙草の快感といったらない。健康から後退することなど何一つ後悔しない瞬間だ。今日のような曇り空でも悪くはないが、欲を言えば本当に良いのは星空の日だ。働いたかいもあったと感じる。世の中の働く男性が、今でも一定数煙草を吸い続けているのも納得できるし、居酒屋という空間がいつでも煙草臭い理由もうなずける。だからといって納得する人間も限られているが。

 

 

 例によって、最初にする話は本題とは関係ない。

 文豪、と呼ばれる死んだ人たちがいる。最近某マンガ、某アニメ、某ゲームなどでとみに有名になっているから、面倒くさいことはしない。要するに、評価される小説を書いた人たちだ。

 そんな彼らは、まあ例外ありきとはいえ、と言うか例外のほうが多いような気もするが、生きていた頃があり、今有名になっている小説を書いていた時期があり、そしてその小説が当時の人々の間で広く読まれ買われていた時代があった。当たり前だ。本とはそういうもので、小説家とはそういう人種である。

 では翻って現代。例えば今時の有名な作家というと、大衆小説でいけば東野圭吾伊坂幸太郎村上春樹森見登美彦歴史小説でいけば少し古いが司馬遼太郎、あるいは池波正太郎ライトノベル界隈なら鎌池和馬西尾維新、少し違うかもしれないが入間人間、等の方々だろうか。少なくとも今現在、本を読んだことはなくともなんとなく名前を聞いたことがある、というレベルにあるのはこのあたりの皆々様ではないだろうか。もちろん、100パーセント主観だが。

 今、例えば私の部屋にある文豪バトル系の某マンガを読みながら思う。

 百年ぐらい経ったら、今度はさっきの人たちがこういう扱いになるのだろうか?

 いや、実際もう既に、綾辻行人京極夏彦両氏をモデルにそういった公式スピンオフ作品が存在しているそうだが、しかしこれはあくまでも今の時代の「あれ」ありきの話である。与謝野晶子が半殺しだけ治せたり、森鴎外ロリコンだったりする作品が前提となっているからあるものだ。だからここでは考慮しない。

 そこで一旦そことは切り離して考えてみるわけだが、しかし一度考えてみると、これは実に、かは微妙だが、しかしなかなか面白い想像だと思う。もっとも、もう既にいろんな人がやってそうだが。まあ例えばさっきの方々でいけば、伊坂幸太郎の能力名が「アヒルと鴨のコインロッカー」、だとか、司馬遼太郎が刃物を発火させられるとか、それこそ西尾維新が一京分の一をガチでかましてくるとか、いくらでも想像ができる。村上春樹なら相手を即死させる能力とかが使えそうな気がしてならない。心が躍る。まだまだいくらでも、著名人を冒涜しかねない想像が湧いてくる。怒られること間違いないし、呆れられること確実だ。

 これはマズい、というやつであろう。腐ってやがる、これは少し違うか。

 

 

 だが、実際問題平成が終わりそうな今、こういった創作物がその界隈では信者を生み出すほどの人気を獲得し、オリジナルの作品を読んだことがないのにやけに詳しく作品のことを知っている、という人間が現れるまでになっているのだ。百年後、さっき上げたみたいなアホらしい妄想が具現化していないとは誰にも言えない。想像とはそういうものだ。文豪たちの作品群も、突き詰めれば想像の産物なのだから。今、大学の研究室で日々文献に埋もれている文学者たちが研究対象としているものは、つまるところ人一人の想像だ。もちろん、だからどうということではないのだが。

 そもそも、昨今大人気のソーシャルゲームにしても、偉人をキャラとして採用しながら史実一切無視の擬人化や性別逆転が施されている例など枚挙するのも疲れるぐらいある。だがこれらは、無論一定数のアンチは常に存在してはいるが、ちゃんと文化として受け入れられている。なぜか? 楽しいからだ。人間は楽しければそれでよく、快感ならすべてを受け入れる。文字通り現金な生き物。無(理のない)課金とはよく言ったものだ。本末転倒なのは、それら割り切った人々が、今のところ排斥される側の立場にあるということだが。そもそものシステムを組んだゲーム会社は排斥されていないのだろうか? 今度誰かに訊いてみることにする。

 結局、人一人の想像で終わっているうちが、物事の花なのかもしれない。何事も、利権が生じればもう道具になる。著作権という言葉が言われて久しいが、随分不毛な争いが展開された時代もあるそうだ。昔からつきものなのだろう。文豪たちにもきっと、そんなエピソードの一つや二つありそうである。そういう観点から考えると、書いたものがあまり世間から評価されず、本人の死後に高い評価を得た文豪たちというのは、そういう争いからはある意味縁遠かったのかもしれない。今でこそ誰にも知られている宮沢賢治も、生前は出した詩集がまったく売れず、その一部を自費で買い取ったりしていたのだそうだ。幸せだったかどうかという議論は止めるにしても、多大な苦しみの中にあることで、知らず知らずではあるにせよ、ある種の争いや厄介ごとから遠ざかっていたというのは、すべてを欲する強欲やすべてを捨て去る悟りへの道なぞよりは、まだしも人間らしさがあるようにも思われる。人間らしさと言うより、本人らしさ、とでも言うべきかもしれない。その境遇は、誰でもない彼一人のものなのだから。

 ただ、そんなことまで考えてあれこれ創作していたらとても保たない。だからとりあえず、そういった部分はしかるべきタイミングまでおかれる。もしくはフォーマットされてオブラートに包まれる。何も知らない人々が、純粋に楽しめるようにするために。そのさじ加減を見極めるのが上手いのが、作られたものが流行り、受け入れられる理由になっている。

 想像を創作とし、そして世に出し、受け入れられる。

 文豪たちも、よくぞやってのけたものだと思う。後世の誰しもが名前だけは知ってる存在になるなんて、すさまじい偉業ではなかろうか。ま、たまに悪名が轟くやつもいるが。どっちであるにしても、生まれてきた以上、そんなやつになってみたいものだ、と、たまに思う。

 

 

 ちなみに。

 前半部分を読んでいて、なんだかいかれてるな、と思った人は大正解。

 現在深夜三時過ぎ。

 つまるところ、深夜テンションに伴う中二病炸裂タイムである。

 堪えてここまで読んでくれて、本当にありがとう。

 あなたの忍耐力と精神力に、もしくは面白がる遊び心に、陳謝。