刹那

 雪のように降ってきそうな、美しい星空の見える夜だった。その様をもっとよく見たくて、家を出た。着ぶくれするほど着込んでいても、剥き出しの顔面に冬の厳しい寒さが突き刺さる。くしゃみが出た。

 

 近くの公園まで、暗い道をのんびりと歩いていく。かさかさと風に鳴る枯れ葉も、もう随分と量が少なくなった。秋ももう、遠くへ離れていってしまったのだ。そして俺の中に残された時間も、足音と同じペースで磨り減っていく。その事実が寒さ以上に体を震わせ始めた頃、公園に辿り着いた。小さな、忘れ去られそうなほど寂れた公園だ。誰もいないだろうと思ってここまで来たのだが、あにはからんや、そこには先客がいた。

 ちっぽけな錆びついたブランコに、一人の女性が座っていたのだ。

 公園内に一つだけある街灯の、ぼんやりとした光だけでは細かな人相は窺えない。しかし丁寧にまとめられた髪、派手すぎない服装、整った顔立ち、すべてが品の良さを感じさせる。そこにいることが少しも不快に感じなかった。どうやら俺が公園に入ってきたことには気づいているようだが、こちらを見たりすることもなく、どこか遠くを見つめながら黙ってブランコを揺らしていた。

 彼女が乗っているブランコの正面には、朽ちかけた木製のベンチがある。少しだけ迷ってから俺はそこに腰かけ、ポケットに突っ込んでいた煙草の箱とライターを出して、煙草に火を点けた。刺激まみれの煙を汚れきった肺に吸い込み、一息つく。そんなことを、いったい何度繰り返したことだろうか。気晴らしと虚しさ、合わせて税込み420円。随分値段も変わった。

 つまらないことを考えていると、ふと目前のブランコから視線を感じた。空に向けていた焦点を当てると、そこに座っていた女性がブランコを揺らさずに黙ったまま、こちらを見ていた。瞳は何も言わない。俺もまた、目を逸らさなかった。気まずさに似た、しかしそれとは違う僅かな沈黙。

 彼女は、微笑んだらしい。身をかがめてどこかから煙草の箱を取り出し、今では懐かしい紙マッチで火を点けた。火の明かりでちらりと、彼女の煙草の銘柄が見えた。マルボロの赤だ。

 俺は指に挟んだ自分の煙草を見る。ハイライト。シンプルなデザインのボックスだ。それが気に入っている。

 冬の寒さと見分けがつかない白い煙を吐き出して、彼女はまたこちらを見た。煙草を持った手が、軽く振られた。薄い微笑がさっきよりはっきりと見えた。

「あ」

 

 その時、一陣の北風。

 

 強烈な風に、思わず顔を腕で覆った。流れる煙草の煙が、鼻ににおった。眼に塵が入ったのか、ちくちくと痛んで涙がこぼれる。僅かに残っている枯れ葉の音が、喧しく響いていた。

 やっと風が通り過ぎて、俺は目を擦りながら顔を上げ、そしてもう一度擦った。

 あの女性が、いなかった。

 ベンチから立ち上がり、ブランコへ歩み寄る。さっきまで彼女が座っていたところに触れてみると、そこは氷の刃のように冷えていて、思わず手を引っ込めてしまった。温もりの欠片もない。

 誰もいなかったのだろうか。

 溜息をつきかけたとき、足下に落ちているものが目に入った。細い棒のようなもの。先端の部分が、僅かに赤く光っている。拾い上げてみると、それはさっき彼女が火を点けた、あのマルボロだった。風に燃やされて、少し短くなっている。何よりの証拠は、何よりも不思議かつ不気味だった。

 右手に、ハイライト。左手に、マルボロ

「さてはて、いったい、なんなんだ?」

 俺のその問いに、誰も、答えるものはいない。ぼんやりと佇む俺の頭上で、新月を通り過ぎた三日月が一人、金色に輝きながら高笑いしていた。