憎まれがちなものたちについて

 今日、道を歩いていると誰かの家の庭に植わっている楓の葉が、赤く色づいてアスファルトの道を覆っていた。風が強い日で、唸るような音が一つするたびに、舞い上げられた枯れ葉がかさかさと音をたてた。別の場所では鈴掛の葉が散らばっていたし、並木の銀杏もすっかり黄色くなっていた。今年は、秋を感じる間もなく冬がやって来てしまった、という印象だ。風の冷たさが、いっそう際立って感じられた。

 

 煙草。

 昨今では憎まれがちな存在だ。まあ、体に害を及ぼすし、子どもにも危険だし、副流煙やら吸い殻が原因の火事やら、排斥される理由には事欠かない。何でもまた増税で値が上がるとかで、ますます肩身が狭くなっていくことだろう。

 しかし、私は(恐らく例外はあるだろう。こういうときにはつきものだからだ)まだ短いのかもしれないが少なからず生きてきた経験の中で知ったことがある。

 どんな町にも、たとえ周囲を山に囲まれて寂れた無人駅が一つあるだけというような町であろうとも、酒屋と煙草屋とパチンコ屋は、探せば見つかる。あるいは町になかろうとも、デパートやらショッピングモールやら、必ず手に入るルートがある。これは、結構確信がある。

 以前自転車で何度か遠出をしたことがあるのだが、その折しょっちゅう見かけたのが、道の途中に突然現れるパチンコ屋だ。そしてまた、どこへ行っても煙草を売る商店や雑貨屋があったし、酒の自販機もちょくちょく見かけた。

 現代社会においては、上記三つはいずれも何らかの悪影響を及ぼすものとされている。しかしそれにもかかわらず、それらを廃絶しようという動きはいっこうに起こらない。みんなきっと、生きていく上でこういうものが必要だと知っているんだろう。だからこそ山の中だろうとそれらが手に入る場所があるのだ。

 

 良薬は口に苦し。有名な諺だ。

 良薬であるにしろないにしろ、世の中で「体に良い」と言われているものというのは大体の場合、摂取し続けることが難しい。味やら手間やら価格やら、いろんなものが邪魔をするからだ。最近はサプリメントという便利なものが開発されているけれど、それさえ最近は懐疑的な目で見る人間もいる。

 それに比べると、体に悪いものというのは美味しかったり手軽だったり安価だったりするものが多いような気がする。カップラーメンやコンビニ弁当なんてその代表格だ。あれらはこの先も、決してなくなることはあるまい。たとえ体に悪いものであろうが、なくなったりしたら私を含めた多くの人間が困るからだ。

 私にはこの手のことに対して一つ持論がある。

「体に良いけど美味しくないものを無理して食べるより、体に悪影響だろうと美味しいものを食べていた方がよっぽど心身の健康に良い」

 勿論、体に良くかつ美味いものがあるなら、それが一番だ。だが大抵の場合、そういったものは値段設定がお高めだったりする。

 

 私はちょくちょく煙草を吸う。吸うたびにいつも思うのは「なるほど。こりゃ体に悪いわ」ということだ。なんだか頭がぐらぐらしたり、体が軽く感じたりする。その感覚を味わうのは、なんだか背徳感があってとても楽しい。

 酒にしろパチンコにしろ、要するにそういうことなのかもしれない。

 体に悪いものほどよく流行る。その方が楽しいことを、みんな本能的に知っているんだろう。ひょっとするといつの日にか、この国でも麻薬が合法になったりするのかもしれない・・・・・・これは飛躍しすぎた。ただまあ、たとえ税率100%かかったとしても、煙草と酒がこの国からなくなることはないだろう。禁酒法時代のアメリカを見るまでもなく。だってそもそも人間の本能が、そういうものを求めているからだ。

 じゃ、私も煙草吸ってこよう。